
へだてとまやかし
双ギャラリー
2018年1月12日 – 2月11日
deviation and deception
@ Soh Gallery, Tokyo
12th January 2018 – 11th February 2018
双ギャラリーカタログより
レリーフを見ること、眼がレリーフであること
成相肇
保坂教はわたしたちの脳内で制作する。
その手法はいわゆる錯視である。物理的には光っていないはずのものが光るように知覚され、不透明であるはずのものが透明に感じられ、暗いはずが明るく、止まっているはずが運動していて、三次的であるはずのものが二次元的に見え、異なっているはずのものが同一に見える。あるいはそれらの、逆。作品に対面しているときには物理的特性と知覚内容のずれ(物理的「正しさ」)を測定すべき物差しを持ち合わせてはいないから、じつのところ、そこ(というかわたしたちの頭の中)にどれほどの錯視効果が生じているのか完全には知り得ないのだが。ともかく、遠近であれ、あるいは影像(イメージ)特有の広がりであれ、あらゆる造形芸術は上記したような三次元時空間を二次平面の中に圧縮する錯視操作をかならず含むが、保坂の特徴は、その操作主体を色彩に託しながら効果を精製・抽出し、むしろ錯視を暴露するように三次元的に示した像を二次元的に押しつぶすところにある。絵画とも彫刻とも呼びがたいその形式は、三次と二次売との間を往来する造形原理の本質を集約するとアドルフ・ヒルデブラント(『形の問題」)が論じた、浮き彫り(レリーフ)に属するというべきだろう。
いちど、保坂が参加していたグループ展を訪れた際にたまたま、彼が展示中の自作をしきりに移動しているところに出くわしたことがある。多色に塗られた棒状の多角形が、学校給食センターに設置されたままのステンレス製の棚の中で鈍く歪んだ反射像を様々に変えていく。配置の修正というにはあまりに長く続くその作業は、ゲリラ的なパフォーマンスにちがいなかった。絶え間なく続く配置変えをしばらく見ていて何よりおもしろかったのは、棒の位置に伴って反射する他面の関係や絵画的構成がただ変化することよりも、ひとたび安定し、それこそ絵画的に落ち着いた二次死が現れようとするそのときに、保坂の手がぐいと差し込まれることで乱暴に三次元が呼び起こされることだった。つまりそこで目まぐるしく変化していたのは位置でなく、位相であった。この、多少大げさにいえば時空間の抵抗を加速させるパフォーマンスは、彼の作品の原理についての補助的な演出でもあったろう。これとまったく同様の仕組みによって保坂の作品は、わたしたちの脳内をまさぐるのである。
「私の眼は赤い薔薇を見た」ではなく、「私の眼が赤い薔薇だ」と書く一かって川端康成が、自身を含む新感覚派のステートメントたる文章の中で例示していた一節が連想される。それは川端の言のように「新しい感覚」というよりは、知覚的にまったく正しい書き方であるだろう。薔薇の赤さは薔薇に属するのでなく、あくまでわたしたちの脳を経由して起こる現象なのだから。私の眼がレリーフだ。それこそ保坂の作品経験の最も直蔵な感触である。