
余白の外側
双ギャラリー
2019年12月14日 – 2020年1月19日
Outside the margins
@ Soh Gallery, Tokyo
14th Dec. 2018 – 19th Jan. 2020
双ギャラリーカタログより
規律と遊戯のはざま―保坂毅の作品をめぐって
中島水緒(美術批評)
坂道錯視というものがある。道路に向き合ったとき、上り坂が下り坂に見えたりその逆に見えたりする錯視現象のことだ。俗に「ゆうれい坂」とも「ミステリー坂」とも呼ばれるこの現象は、近傍と遠方で異なる勾配の坂道が続くときに起こりやすいのだが、なぜこのような誤認が起こるのか詳しい理由は解明されていない。ときには下り坂を上り坂と勘違いしたドライバーが間違ってアクセルを踏み込んでしまったり、上り坂なのに車が勝手に引っ張られているような体感が生まれるケースまであるらしいから、たかが錯視と侮ることはできない。私たちの日常の視覚は遠近法のような「象徴形式」によって少なからず統制を受けているはずだが、遠方に向って収束していく空間の認知というものは、ちょっとした条件の組み合わせ次第で大きく揺らいでしまうものなのかもしれない。
そしていま、私たちの目の前には保坂毅の作品がある。
もとは絵画を出自とする保坂だが、近年、その支持体は、段ボール大の立方体や柱状のものなど「絵画」の常識を逸脱する様々な形態へと発展している。しかしこうした変化を絵画から立体への転向と見做すのは早計だろう。たとえば今回の展示作品には、四角錐台を平たくしたような形態の支持体による新作がある。一見すると浅いレリーフを思わせるこの作品は、じつは2018年の双ギャラリーで展示された平面的作品と同型モデルの支持体を表裏逆にしたものだという。
絵画には表も裏もあり側面もある。側面の空間が拡張して立方体めいてゆくこともあれば、緩やかな斜面となってレリーフ状に突出する形態へと変化することもある。塗り分けられた色面は隣接する色面や形態との関係によって、手前に突出したり引っ込んだりして見える。錯視の詐術を思わせるところがあるが、しかし保坂の作品はエフェクトの産出に賭けるトリックアートの類とは異なって、観賞者の視知覚を針の振り切れない曖昧な様態に留め置く。
水平の概念を微妙に狂わせるストライプ、仮想空間と現実世界のはざまで半身を起こす色面、距離や角度によって交替する明るさと暗さ。0度から360度まで、ありとあらゆる面、さまざまな視角、通常は見落としてしまう盲点/余白から、さらにはヴァーチャルな空間把握の技術も借りて、いまだあらわれない絵画空間の可能性を汲み出すこと。おそらく保坂もまた、モダニズム絵画が抱えていたメディアに対する自己反省的な問題系を意識してきた画家の一人なのだろうが、絵画とはかくあるべし、というモダニズム的な教条に対するとんちの効いた切り返しのようなものが、最近の保坂の作品に見受けられるのだ。
支持体や色面の実験は無際限のヴァリエーションを生み出してしまう危険性もある。空間の探求に終わりはないが、制作における終わりのなさと私たちの日常の時間意識はあまりにも釣り合わない。この問題に対する処方として、保坂は折り紙やマスキングテープといったありふれた既製品を参照し、色彩/形態の実験に秩序と有限性をもたらした。面として一定の区画を形成する折り紙、線として空間の延長を示唆するマスキングテープ。これらは絵画制作の基本単位を代理する素材でもある。そして、折り紙とマスキングテープの参照は、既製品ならではの規格化された無機質な表情だけでなく、微かなフェティッシュと遊戯の感覚をも作品に授けることになった。
保坂は自身の制作を「エクササイズのようなもの」と呼ぶ。色彩と形態をめぐる応用技術はエクササイズによって柔軟性と精度を増していく。だが何に向けて? 職人的な完成度を備えた作品群は目的らしい目的に奉仕するわけではないが、日々積み重ねられる準備運動は、上っているのか下っているのか分からない坂道にも似て、私たちを慣習的な視知覚の外へと連れ出すに違いない。