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@gFAL

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gFAL, 武蔵野美術大学
2014年11月13日 – 12月12日 
主催:Gallery of The Fine Art Laboratory
(油絵研究室企画)

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@ gFAL, Tokyo 
13th November 2014 – 12th December 2014

photo by 野村 在(NOMURA Zai)

gFALプレスリリースより

「つくることのノイズ」 長沢秀之 (武蔵野美術大学教授)

いつの頃から、 絵を撮った写真がその絵を指し示すものとなったのだろう? それは単に絵をひとつの視点から切り取ったものに過ぎないのに、それを“その絵”と見なすことに違和感を覚えるのは私だけなのか。 例えばフェルメールの絵を見るとき、 私はそばに近づいたり離れたりしながら自分がカメラになってズーム 調節をしているような気分におそわれる。

あるいは フランシス・ベーコンの「走る犬のための習作」の絵の前にたたずむ時、 表面のガラス面に自分や周りが写ってしまうので、見るのにいい位置を探さざるを得なくなる。これは“見づらい”だけで片付けられるものではなく、ベーコンが額にガラスをつけるよう指示したことも考えれば、むしろ客体としての絵画の捉え方にもつながってくる。それが一枚の絵の写真で示されてしまうことに違和感を持つのである。だからまだしもトーマス・シュトゥルートの美術館での写真のように、絵とともに観客が写っていたほうが、絵を見る位置が不確定であることを感じさせて心地よい。 もちろん情報も大切であり絵の写真の集成である画集もそれを知るには欠かせないものだ。しかしそこにはこちらの身体がないから透明な感覚しか残らない。絵画体験はこちらが動くことによって成立する。保坂の作品はそのような 体験へと人を導く。

彼は言う.「正面からぱっと見た時に作品が平面に見えるような色彩やかたちの組立てをしています。」彼はあくまでも絵画としての見られ方を意識している。ところが観客は、たとえば Stripe 05(kiwaku ) の前に立ったとすると、視線を作品に向けたまま、その前を移動することになる。右から左、左から右へ、あるいはときに低い姿勢をとりながら移動し、その度に作品が違った表情を見せ輝き出すことに気がつくはずである。作品は観客の身体とその移動を要求する。その体験が作品を“見る”ことそのものなのだと気づく。それは絵の世界にすんなりと入ってその意味内容を見るのと違い、極めて身体的なものであろう。ここでの“見る”ことは視覚的なことのみならず、生身の肉体の運動であり、奇しくもそれは認知の初期動作を開始するロボットのようなものだ。一体これは何なのだろう?・・と。 「最初のきっかけは自分の内的なものを絵に出すのではなくて、外側から、絵が物体だということから入っていった・・」と彼は言い「全てが具体的なモチーフという感じで制作しています。

絵のパネル自体がモチーフであり、影も絵の一部であると同時にモチーフでもあるので、むしろ抽象と具象とかをあまり分けて考えていません。」と展覧会の対談記事でも語っている。 ふたつのことばは保坂の作品への関心が、内容やそれと繋がる世界にあるのではなく、作品そのものにあることを示していて興味深い。保坂が生きているのはこの現場であり、そのことが観客に臨場感を与えている。それは作品のリアリティとは何かを考えさせる。純粋な視覚だけでは絵画のリアリティは存在しない。

絵画作品の生成にあたっては、 物質に触り、 素材に触れてそれを身体とともに動かしてみなければわからないことがある。それをノイズとするならばそれこそが絵画の最後のよりどころなのかもしれない。 これはつくるための初心の態度であり、見る側にとってもそれははじめの第一歩でもある。 保坂の作品の特徴は、 作品が観客の身体の側へと開かれ、見ることの重層性がそこに折り畳まれているところにある。